無題(M2亀澤信次)
M2 亀澤 信次
奈良の自宅のデスクトップPCにM2同級生の仁科さんから、何でもいいから投稿しませんかと同窓会会誌のメールをいただきました。高専OBの一員として、一昨年3月、35年余り勤務した会社を定年退職しましたこともあり、会社生活での「会社」についての感想をお話しするつもりで書きます。
会社の創業者は和歌山ご出身で、極貧から大阪へ出て、太閤・豊臣秀吉にも比肩するほど成功された「松下幸之助」さんです。大正7年に創業し、今日で約90年を経、昨年10月、グローバル・エクセレント・カンパニーを目指し、社名を「パナソニック」に変更しました。世界百数十カ国に製造、販売拠点を有し、年間売上高は約8兆5千億円に及び、昨年末の合併ニュースを加えれば、10兆円を超える日本有数の総合家電メーカーに成長しました。
松下幸之助さんは火鉢店、自転車店の丁稚奉公、大阪電灯会社の配線工を経て、友人数人でソケット製造・販売を始めましたが失敗しました。しかし彼はくじけず、大正7年に大阪の大開町で新規創業し、自ら考案した改良型の配線器具「アタッチメント・プラグ」を、続いて「2灯用差込みプラグ」を販売し、以後も次々にヒット製品を出し、電化製品の開発にも成功し、全国有数の電気器具メーカーに育てました。大きな耳と素直な心をもち、お客様の意見を根気よく聞き、製品へのニーズを的確に感得し、類まれな熱心さで数多くの発明考案(特許8件、実用新案92件)を生み出しました。彼は日々の会社経営で多忙な中、企業の社会的使命を考察し、経営者は社会から「経営」を任され、その責任を果たす役割を与えられたと考え、このことを経営基本理念(綱領・信条)としました。会社が経営上で決定するすべてのことはこの経営基本理念に則って、判断されるわけです。これは創業から90年を経、社名を変更しても不易です。
松下幸之助さんの人生は一人の起業人が世界有数の企業を創り上げることができることを実証した物語ですが、ひとりの企業人としてだけではなく、彼の中に内包される多彩な人物の物語であり、単純ではありません。彼の人生には丁稚、配線工、自営業者、発明考案者、製造人、販売人、社長、経営者、企業家、大阪商人、日本人、平和愛好者、思想家、著作人など実に多彩な事跡が積み上げられています。日本の偉大な経営者の原型を見ることができます。PHPほかいろいろな著作物が出版されていますので読んでみてください。
高専という教育システムは専門に偏りがちになるのがひとつの課題であると思われますので、世界のいろいろな人の物語や歴史や、欧米の科学者が著す警鐘なども読みながら、自分のいつものテリトリーとは違う領域を多少とも疑似体験することが人間の視野を拡げてくれるものと思います。視野の広い人ほど大きな包容力を伴い、高度な人間関係を構築でき、組織的で計画的な成果をもたらすことができるものと思います。
彼は会社が途方もなく大きくなっていく時にも、事業の原点である発明・考案を大切にし、その創作活動を奨励して、発明考案を積極的に生み出す企業風土を醸成しました。その風土が新しい製品、サービス、ビジネスモデル等を創造し続ける活力ある企業を創り上げました。私の経験した知的財産部門の仕事は研究開発部門へ発明創出のためのインセンテイブを与え続け、常に研究技術者を活性化して、その知的財産を企業の経営資産として確立し、さらにその権利の活用によって、優位性を確保するものです。知的財産活動は法律(法/権利解釈・裁判など)と技術(発明/技術の理解・技術の文章表現など)の両方の領域にまたがる実に変化に富んだ奥の深い業務の一つでした。技術者にとって、知的財産権は非常に重要ですので、関係する著作を何かの機会にぜひ一読することをお勧めします。
会社員としての生活は仕事に追われる毎日でしたが、リタイア後は工業から農業へと農業大学校へ行き、勉強を始めます。美しい日本の山里の風景を残し続けたいと心から願っています。
奈良市佐紀町3189番地