美しいことば

元教養科 教授 鈴木 邦彦

 もっとていねいな言葉で美しいことば、を考えるとき、まず思い浮かぶのは、14歳の少女のことばです。彼女は伊豆の天城峠の茶屋で出会った一高の学生に湯ヶ野の宿でこう話します。

 「明日は下田、嬉しいな。赤坊の四十九日をして、おっかさんに櫛を買って貰って、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行って下さいましね」

 少女は、川端康成の「伊豆の踊子」の踊子、薫ですが、なんと美しくていねいでやさしいことばを使っていたのでしょう。上流階級のことばではありませんが、今聞くと、その雅びな美しさに胸を打たれます。

 踊子が天城峠を越えたのは大正7年、今から90年ほど前です。この90年、日本人のことばは、確実に乱暴に、汚くなりました。

 朝、東海道線の電車に乗ります。ちょうど「伊豆の踊子」の薫と同じ年ごろの女学生が大声で話しています。

 「うちのくそばばぁがさぁ…」どうやらお母さんのことのようです。
 「すっげぇきたねえんだよ…」とか
 「知らねえよう」とか「やべえ」とか、聞いていて胸が痛みます。

 こういうことばを使わないと、友だちから仲間はずれにされてしまうという事情もあるようですが、なんといっても元凶はテレビです。

 ある県内のテレビですが、○藤快というタレントが、女子アナにむかって、
 「…じゃねぇじゃねぇかよう」と話しているのがそのまま放送されていました。

キ○タクや中○くんまでも、「知らねぇよう」などと言い、
泉○ン子さんに至っては、もと大臣までやった女の人の、国会での質問に負けぬくらい下品で乱暴です。
 テレビを創る人たちの責任は重大です。

 もっと低い声で静かにおいしい食べ物の店を紹介するテレビのアナウンサーのあまりにも大げさな表現もげんなりします。ラーメンを一口食べるや、今にも気絶しそうな顔つきで、「おいしい!」と叫んでのけぞります。すぐそのお店に行ってみますが、ただの一度も、のけぞるほどおいしいラーメンに出会ったことはありません。

 われわれの回りにも、テレビにつられてか、大げさに感動してみせないと鈍感と思われはしないかと恐れて、ますます大げさなことばが広がっていきます。その揚げ句、大声で大げさに話されないと、相手の気持ちのわからない、鈍感な人ばかりがふえていきます。

 1gの思いは1gのことばに、5gのかなしみは正確に5gのことばに言い表されたとき、はじめてことばは美しく光ります。もっと低い声で静かに話したいものです。

 真に美しいことば、しかし、ことばの真の美しさは、やはり、中身です。思いとやさしさに満ちたことばをいつか、身近なひとに話しかけられるような、強くやさしい人間になることが、美しいことばを身につける近道なのだと思います。美しい国は美しいことばからできていくのではないでしょうか。

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