沼津高専の思い出
元機械工学科 教授 黒下清志
昭和43年3月に沼津高専に着任して以来、あっという間に40年が経ち、平成19年3月に定年退職いたしました。この間、良き友、良き学生および良き家族に恵まれ、充実した教師生活を送ることができ、感謝の気持ちで一杯です。
退職後は工業から足を洗い、農業と漁業に転向しました。農業については、農業資格がないため、農地を購入することができません。そこで、山林を購入し、開墾して畑にしました。化学肥料や農薬を一切使わないで、無農薬野菜の栽培をしております。ほぼ、自給自足ができており、日本国の食料自給率の向上に貢献しております。漁業については、体力が衰えたため、磯に入るのは無理になってきたので、キスの投げ釣りが専門です。漁場は駿河湾(沼津市)と郷里の瀬戸内海(香川県観音寺市)の海岸です。最近は漁獲量が減少して、赤字経営です。趣味としては、下手なゴルフを相変わらず続けております。こちらの方も、体力の衰えから飛距離が落ち、1打あたりのコストは安くなる一方です。
次に、沼津高専での40年間の中で一番の思い出を以下に紹介させていただきます。この話は沼津高専だよりにも書きましたが、老人にとってはこの思い出が宝物です。沼津高専だよりを読まれた方には申し訳ありませんが、再度書かせていただきます。
それは、昭和48年の秋のことでした。沼津高専野球部の主将が頼みたいことがあると言って私を尋ねてきました。沼津高専野球部は静岡県高校野球連盟に加盟して以来10年近くなるが、まだ夏の県大会で1勝もしていない。今までは学生が監督をしていたが、学生監督では指導に限界があるので、私に監督をやってくれとのことでした。高校野球の監督の妻は大変だということを知っていた家内を説得し、監督を引き受けました。監督をした期間は4シーズンでした。この間、夏休みなどで閉寮になると寮生の部員を自宅に泊めたり、練習試合で帰寮が遅くなり寮の食事が無くなると寮生の食事を作ったり、家内には世話になりました。
さて、このときの1年生と2年生の部員はわずか7名でした。これでは秋の大会には出場できないので、春になって新入生が入部するまでに、現在いる選手だけでも鍛えておこうと思いました。朝は6時前に寮に行って部員をたたき起こして朝練習をやったり、投手には1日に300球の投球と約10kmのランニングを課したり、かなり無茶なことをやりました。しかし、当時の学生は要領が良くて、かなり手抜きをしていたようで、投手は肩も壊さず無事に投げぬきました。
春になり、新入生が入部し、1、2、3年生の部員が13名になりました。これで夏の大会に参加できることになり、喜び勇んで抽選会に臨み、主将が籤をいたところ、相手は部員が50人以上もいる名門校、沼津学園(現在の飛龍高校)でした。監督を引き受けたとき、3年あれば1勝させると法螺を吹きましたが、このとき内心では5年と言っておけば良かったと思いました。しかし、監督である私が今年はダメだとも言えないので、平静を装って試合に参加しました。
試合が始まると、部員がわずか13名で、応援学生も少なくてかわいそうだということで、一般の観客のほとんどが沼津高専を応援してくれました。学生がこの応援に応えたのか、無欲で戦ったためか、その結果は、意外や意外、9回裏2アウトからの逆転サヨナラで、沼津高専の勝利(4対3)でした。勝利の瞬間、感激屋の私は嬉し涙が止まりませんでした。また、世の中、何事もあきらめてはいけないということをこの試合で教えてもらいました。大番狂わせということで、新聞にも大きな見出しで報道されました。写真はそのときの朝日新聞(昭和49年7月22日)の記事です。
以上が私の沼津高専での一番の思い出です.
最後になりましたが、私の迷講義を我慢して聴いてくれた卒業生諸君に心より御礼申し上げます。